Monday, January 17, 2011

リービ英雄 「我的日本語」  Part 2


ミニチュア茶道具 2x6cmくらい 


美しいと思うこころ

美しいと思うこころは俳句のようにシンプルだけれど、ある意味で俳句のようにむづかしい。50頁をめくるとリービ英雄はこう言う。

「。。。大和三山も。英訳ではthe three Mountains of Yamatoとなっているが、これはどう見てもthree hillsとしか思えない。表現された風景と実際の風景の差に直面し、ぼくはひどい失望を覚えた。」

私は日本人だからリービ英雄に同感するわけにはいかない。けれど上記の思いはよくわかる。私がアメリカに来たばかりの当時、1970年代、ワシントンの吉野桜の風景をテレビで見るたびに、もしかして日本のよりきれいなのかもしれないと思ったことがある。それからも美的感覚については何度も考えさせられることがあった。

ある日、10マイルほどはなれたところに住んでいるアメリカで知り合いになったお友達のところに行ったとき、その近所の日本人ガーデナーの家をたずねた。お庭の草木をながめながらその家の奥さんとお喋りをしていたとき、私のお友達が「あまりお花を植えてないのね」とその奥さんに言った。たしか一、二本の白いお花が咲いていたくらいであとはほとんど緑のバリエーションだったと思う。奥さんは「お花がいっぱい咲いてるのいや。一本だけきれいに咲いているのがいい。」という意味の言葉をとぎれとぎれにつぶやいた。その時分、私は毎週植木屋さんに通ってお花を競って咲かしていたときだったから、はっとした。そしてそのときの奥さんの素朴な態度、美しいものを見るこころに尊敬の念をもった。茶道をやっている母に反発してアメリカに住んでしまって、家を買ってからそのときまでバラ80本、球根100個と、じゃんじゃかばかばか植えていてもう植えるところないというところまできていたときだったから、すごく反省するいい機会だった。母もそういうふうにお弟子さん、他人をはっとさせていたんだなぁと思った。

きっと古代の風景はどこも、日本も外国も、美しかったのだろうけれども、現代の日本のせせこましい都会はどうころんでも美しいとは言えない。それには戦争があってそのあとの外国の人には想像つかないだろう住宅難があって、それに輪をかけるように都市計画に統一性が欠けていたとかいろいろな理由があるだろうけれど、美しいと思うこころはなんにからも影響されずほかの人の価値観と比較することもせず、ただただ大事に持ち続けることができる。

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