リービ英雄が日本人になったと思った時
リービ英雄が日本人として認められたいのに、「結局認められないんだ」というようなことを何度も繰り返し書いている。でも日本人も彼と同じように、ちゃんと認められたいという気持ちが強いと思う。その意味ではお互い変わらない。
ただ日本人は、選択肢なく、かつ努力しないで生まれてしまったわけだから仕方がないというか罪はない。少し努力すれば国民になれるアメリカからきて不公平だと言っても、アメリカの標準に従うのが当然だと言っているように聞こえる。それでは効果は逆方向に行ってしまう。だから、日本国籍を取得するための効果的方法とはなんだろうかと考えたけれど、いい考えはまだ浮かばない。
誤解されそうな言い方しかできないけれど、認められたいという気持ちは、日本でもアメリカでも、私にもあって、見えないようでも誰でも奥底に秘めているものだと思う。よくよく考えていくと、結局のところは自分自身が自分を認めるか認めないかの問題でもある。「結局日本人としては認められないんだ」というリービ英雄の心情をむき出しにした表現に接して特にそう考える。彼も気がついていないはずはない。彼だって自信なさそうな日本人の顔をかいま見たことがあるだろう。自分の価値は自分が一番よくわかっているはずだ。
普遍的な感情である、認められたいという気持ちが日本人としてはっきり現れるのはこういうときだと思う。正直で尊敬に値する人でも、こういうことをよく言うのでがっかりする。例えば、「いやー、まだまだですよ。10年?冗談じゃない。いやー20年なんてまだ赤ん坊だ。30年で小学校に入ったばかりのようなもんだ。40年でまあ上の学校ってとこかなぁ。私?70才になりますがね。まだまだひよっこです。一人前とは言えません。」とか控え目というか自分を卑下して言うのか、何才になっても同じ態度を繰り返す。自分をいましめるのはいいけれど、そんなのは自分の家で寝るまえの独り言にしてもらいたい。
つまり、私がここで言いたいのは、リービ英雄のストレートな言葉は根っこの部分では日本人と同じことだということ。政治と法律がかかわっている部分はわからないけれど、彼は普通の日本人以上に日本のことを勉強しているし、とっくに立派に日本人じゃないかと言いたい。でもそういうのにぬきうちテストがあったら日本人のほとんどが落第するだろう。そんなことになったらすごい混乱になる。ところで混乱というと、日本人は非常に混乱を嫌う。ほんの少しなにか違うだけですぐ混乱する。「天野さん、混乱させるようなこと言わないでください」と三菱フソーの課長さんに言われたことがある。説明したかったけれどもっと混乱するおそれがあったから黙っていた。そういうことがいろんなことの決定を遅らせている理由かもしれない。
それで私の眼からリービ英雄が日本人になったのはいつかとたずねられたら、こう答えたい。1993年頃のこと。そのうちに私はアメリカでのシステムプログラマーの仕事をやめてどこにいてもできる翻訳の仕事で食べていこうかと甘く考えていた。そんなとき、たまたま横浜みなとみらいで翻訳者の会議があったので、どんな就職口があるのか、翻訳者とはどんな人たちなのか興味あって参加してみた。そういう集まりでは一番大きいものだったと思う。その席上にリービ英雄が現れ講演した。日本語で書くアメリカ人ということで私も興味もって耳をすました。
スピーチの始めに「この席に集まっている人たちは、日本語を使うひとの中でもレベルの高い人たちだから言うんですけれど」というようなことをドンと言った。はっきりものを言う人だなと思って好感をもった。聴衆はクスクス笑っている。きっと翻訳者の中でレベルの差が激しいのだろう。プロの翻訳者といっても私のは本業ではなかったからもっと深いものがあるのだろうと思った。
そうしている内に万葉集の話しになり、すごいな、私は人前で万葉集を読んだなんて口が裂けても言えない。茶道教授の母からは勉強が足りないといつもなじられていた。そうしたら、文脈は全く忘れたけれど、またどんな人のことか知らないけれどリービ英雄が、「教養ないんだから」というようなことを口走った。たぶん普通のある程度教育ある日本人のことだろう。彼はまるで母が私にお説教するようにそう言った。
ギクッ。
ああ、アメリカ人も日本語がここまで達者になると日本人になってしまうんだ。アメリカ人でいればいいのに。外交的なアメリカ人のいいところを失っちゃもったいない。そうひとりの日本人を思わせたときがリービ英雄が日本人にもうなっていたときだと私は思う。
それでそのとき「星条旗の聞こえない部屋」は読んで面白かったけれど、自分の教養のなさが恥ずかしくなったからそれ以上彼の本は読まなかった。ところがつい最近、事故にあったように「アイデンティティーズ」そのほかのリービ英雄の本をたてつづけに読むことになった。最近はバイリンガルのライターの話しがよく目につく。こちらが探しているからだろう。今月号のPoets and WritersもThe Bilingual Imagination という題のエッセイが出ている。作者はスペイン語、英語のバイリンガルのAnna Menendez。言語の比較の話しは面白い、でも日本語と他言語の比較のほうが違いが大きいだけもっと刺激的だ。