Friday, December 31, 2010

リービ英雄 「我的日本語」  Part 1



A Happy New Year from San Dimas!


1.  リービ英雄作、我的日本語 P.17   日本語の特徴である、一人称、二人称の複雑な使い分け、またその使い分けによって動詞も変化するということについて。

日本人は一般的に、このことについてはただ単に「言葉使い」が良い、悪いという。でも使う機会がなかったらその場に合った言葉使いはできない。また両親、また回りの人が知っていて教えてくれていたら使えるけれども、そういう環境で育たなかったら知らない。それで言葉使いが良い悪いということはrelativeで、どんなに気をつけている人でも一生悪いと言われ続ける可能性がある。これは私の経験から言えることであって、つまり、母にしょっちゅう言われていました。

現在では多くの人が、昔悪いと言われていた言葉使いを平気で、ときには笑みを浮かべて使っている。例を言うと、ずいぶん以前のことだけれども、私の右腕だったしっかりとした若い女性が大きいということを「でっかい」と何度も言うのでざっくばらんに注意したことがある。彼女は寝耳に水だったらしい。ずーっとあとにもロサンゼルスでお友達になった私と同年輩の女性も「でっかい」と何度もいうので尋ねたら沖縄ではそれが普通だと言う。どうも私が日本のことをあまり知らなかったというわけだ。現在では日本中でそういうのかもしれない。もしかして地方では男女の言葉の差はあまりないのかもしれない。男女だけじゃなくて敬語の使い分けもゆったりしているのかもしれない。最近、横浜でも東京でも女性の「でっかい」をしょっちゅう耳にする。そういう言葉に違和感のない人にとって私のような者は差別感を持っていることになるのだろう。きっともっと女性の「でっかい」を私の耳に連発されたらそのうちに私も平気になってある日突然「でっかい」と言うようになるのかもしれない。私は案外ミーハーで流行語を聞くとすぐ使いたくなる。これからも日本で一年の半分は住んでいたら、あと五年か十年もしたら私の日本語もずいぶん変わるだろうと思う。言葉の民主化に賛成だ。


「言葉使い」という言葉自身に差別、階級性がある。それを社会問題と呼べば呼べる。差別、階級性を日本語からなくしていけるのは日本語を話し書けるリービ英雄のような外国人たちかもしれない。長く重い恥の文化をしょっていない人だったら先入観なくニュートラルな言い方で言える。回りの人からとやかく言われずに。うらやましい。例えば、P.15で「天皇皇后陛下にお目にかかる」と書いてあるけれど、これは彼のアメリカ人的voiceだ。こういう場合は言葉にうるさい編集者だったら拝謁と書くと教えると思う。たいていの日本人は拝謁にあがることはないから、もちろん私も含めて、編集者にも知らない人がいるかまたは言葉の民主化のためにわざとお目にかかるという使い方を奨励しているのかもれない。事実はわからない。

私は上の文章を読んだ時、少し考えてからこれからは「お目にかかる」でいいと思った。いにしえの悪習慣はばっさり外国からやって来たリービ英雄のような人にやってもらうのが最善の方法かもしれない。語感は自ずからは変わらない。どこまでもいつまでも恥を内から感じるから。それは言葉の杖のようななまやさしいものじゃなくて、アルツハイマーになろうが、記憶喪失性になろうが絶対にぬけない言葉の根っこだと思う。


2.「混じり文」の美しさ

これは、美しさも醜い文章も書き手のセンスであって、ずいぶん醜いのがあるけれど著名な作家にいるからなんとも言えない。だから混じっているから美しいとストレートには言えないと思う。ただ書き手のセンスでいろいろな選択肢、字の遊びができるから書き言葉としては日本語は面白い言語だという意見には賛成だ。でもこういう意見を聞いて自分の頭でよく考えもせず日本語は美しいのだと簡単に言う人がいるけれどうぬぼれてもらいたくない。私のかな書道の先生のように自由に美しく書けるのならうなづけるけれど。昔はうぬぼれる人はあまりいなかったけれど、最近の日本は変わってきた。いつの世でもどこの国でもうぬぼれるのは醜いに決まっている。


P.21  「中国人はよく日本人は神経質だという。。。ぼくは国民性というものを、ほとんど信じていない。。。。日本語を書くとき、書き言葉のなかに異質なものがあり、異質なものを常に同化するという経験をする。それが、心のはたらきに影響しているのかもしれない。。。。常にその中で生きなければならないというのは、決して、ストレートに生きるということではない。それで日本人は神経質に見えるのではないか。」

上記から、国民性じゃないけれど書き言葉が特殊で神経質に見えるのじゃないかと言う意見だけれど、だいたい神経質の傾向がなければこういう書き言葉はできなかったと思うのだけれど。どうだろう。神道のいっさいもみそぎおはらいといつもなんどきもそればかり、よくノイローゼにならないなと思うほど神経質だ。宗教も文化も言葉も精神性を高めていくのは神経質なことかもしれない。神経質同士はその中に価値観があるから外部の人が思うほど神経質だとは思っていない。私にしたって、中国人が思うほど日本人は神経質だと思っていないのかも知れない。日本人以外になったこともなることもないからわからない。でもそのわりには日本人は昔も今も論理は飛んでいるかに見えてもいっこうに平気で前に進んで行けるのは、いつも他に合わせるという、バランス感覚が働いているからかもしれない。良く言えばバランス感覚、悪く言えば鈍感。矛盾がおもしろい。

写真はおめでたい金銀の米俵、従姉が作ってくれた縮緬の木目込み兎、金銀の折鶴を琉球塗りのお盆にのせました。2011年が良い年でありますように。

Friday, December 10, 2010

かな書道

先生のお手本です。好きなのからアップロードしたら一番好きなのが一番下になってしまいました。やはり日本の句はかなで書きたいと思います。でも漢字が全くないのも絵になりませんね。日本語のおもしろさです。

飯田和子先生のセンスは抜群です。同じ字でも違う形を選んで調和をとっています。私もできたら同じ字をつかいたくないので嬉しい発見でした。文章を書くときもそういうような工夫をしています。それから渇筆といって墨を少なくして風情を出しているところは泣きたいくらいです。真似するのにけんめいにティッシューでとって練習しています。そのうちに自分の創作した詩を古代のやさしさのあるかなで書いてみたいと思います。




この句はもちろん好きなのですけれど、椿だけが漢字で強いアクセントになっていて、
そして「おとしたる」の「し」がいかにも椿が落ちていくさまを見るようです。
また、そのあとの「る」が憎いくらい可愛いいと思いませんか。