Monday, November 19, 2012

津山郷土博物館




先週は、ひょんなことから津山郷土博物館に横浜から二回も行きました。家の先祖である山田牧之助のことを調べるためです。つい先週、兄から勘定奉行をしていたと聞いたばかりで、それが同じ人か、漢字もどう書くのかも確かではありませんでした。ただ祖父が牧三なので漢字は牧之助だろうと思っていたわけです。

旅に出る始めの日に、館林郷土資料館を訪れ、それがたまたま特別展の最終日で、その上、「館林藩御家中絵図」1825-1830ごろ作成されたもので、城内部分が特別展のパンフレットのカバーデザインになっていて、そこに牧之助の家と他親戚が載っていました。絵図は岡山県津山市の個人蔵です。
もうひとつ眼についたのは「浜田藩分限帳」です。藩士の履歴が書いてあって全部で25冊あるそうです。これも津山からの出展でしたが、幸運なことに津山郷土博物館からでした。それを寄贈した方に感謝いたします。




浜田図書館所蔵の郷土資料は直系の人にだけ閲覧可能だというので、私は直系だと江戸時代の戸主の名前も分かる戸籍謄本を持って行ったのですが、どっちみち申請してから時間がかかるということで、しつこく言っても嫌われるだけなので、今回はあきらめました。来年には新しい立派な浜田図書館のビルが完成して、そこに移るようなので、人事も規則もいろいろなことが変わるかもしれません。来年に期待したいと思います。できたら祖先の筆跡を見たいので。


とにかく津山郷土博物館に行ってみようという闘士が湧いてきました。「どうして見たいんですか?」、「見てどうするの?」なんて言われるとゲッソリするけれど、人は人。
それで駆け込み寺にでも行くように津山郷土博物館に行ってきました。貴重な資料を閲覧許可して下さった尾島治館長、資料の読み下しに絶大なる協力をして下さった杉井万理子さんに感謝いたします。




そういう御縁で津山城もほんの少しですが、見ることができました。丁度、天保期の国絵図の展覧会をやっていて、その絵図の作成について興味深い記事がありましたので、ここで紹介させて頂きたいと思います。著者は梶村明慶とあります。文章が読みやすく、流れも良いので一気に読んでしまいました。

記事によると天保六年に、幕府から諸大名に国絵図を作るよう命令が下り、その作成にいかに多くの頭痛の種があったか書かれています。現在の県と違って、藩というのは、他の藩の飛び地、天領などがあってすごく入り組んでいますね。
播磨の明石藩、三河(愛知県豊橋市)の拳母藩の陣屋があった坪井、石見国の浜田藩、播磨国の龍田藩、茨城県の土浦藩などと国絵図の作成についてやり取りがあったようです。きっと素晴らしいチームワークで全国の地図が出来上がって行ったのでしょう。

そして、館林から移ってきた藩士は、災害が多くて、経済は逼迫、頭痛いっぱいのところから希望を持って浜田に着いたばかりで、きっとこの命令は頭痛第一号だったかもしれません。帰りの新幹線でそんなことを考えました。

上記の記事の中で面白いと思ったのは、幕府が津山藩に対して新しい国絵図の提出を何度も迫りますが、そのやりとりが想像されます。小説の良い題材です。

浜田藩も同じような経緯があったと思います。分限帳によると先祖は1701年までさかのぼることができましたが、代々続いている旧家という文章が何度も出てくるので、どこかにそれ以前の資料があるかもしれないと思いました。できたらその先も知りたいし、その時代にあった百姓一揆のくわしい経過など、また廃藩置県前後のことも読んでみたいと思います。
協力して下さった杉井さんに見習って、私も古文書の読み方を習いたいと思います。


博物館の隣で食べた遅いお昼
三色弁当は私の好物です。ここではシイタケ弁当と書いてありましたが。
おいしかった!